昭和45年03月05日 朝の御理解



 御理解 第86節
 「女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば貴いものが出来ぬ。女は家の家老じゃ。家老が良うなければ城がもてぬと云うが、女が良うなければ家がもてぬ。」

 女は世界の田地である。世界の田地と云う事。是れは世の中のと云う意味でしょうね。その世の中の女性、女の方がいよいよ田地を肥やして行れて、いよいよ心を豊かなものに肥やして行かれる。確かにそれは有り難い事だと思います。ね。けれども私は此処に思います事はどんなに素晴らしく素晴らしい、ま沃土と肥えた土地の事を沃土と申しますね、どんなに肥えた土地で有りましても、沃土でありましても、そこへやはり蒔く種が悪かったらね。やっぱり良いものは生まれないと思いますね。
 だから、其処の所のあいまったものが。田地も肥えておかねばならぬ、蒔く種もまた立派でなからなければならぬ。云うならば「名将の元に弱卒なし。」と。やっぱり偉い人の所の奥さんは、やっぱり奥さんも偉いと云う訳なんですねえ。けれどもやはり此処では、とりわけ、女性の方に対する事ですから、やはり女性が良いと云う事によって、主人も立派に成るというケ─スも有ります。
 昨日伊万里の竹内先生と、それからお母さんが、お二人でお礼参拝が御座いましたが、こまごまとお婆ちゃんが、お届けをされますのに、そして先生は其処で、御理解を頂いて居られます。それでお婆ちゃんは、耳が遠くあんなさるものですから、自分はまぁ此処へ来て、こまごまとお取次ぎを願われます。今あの選挙戦たけなわで、今度市長に立候補されますからね。
 それでまぁなかなか難しい、デリケ─トな所を今通って居られる模様で御座います。もう一日中夜夜中も二時半三時にも成る様な事がある。夜中にお客さんが有と云った様な状態らしいですけれども。やっぱりお婆ちゃんは、何も出来んけれど、お茶ぐらいあのう汲んだり位いはさせてもらうと言うて居られましたが。私が、「あの人に。」いや先生の事を言うて、言われるのに「どんな事があっても卑怯な事だけはしちゃいけんよ。」と。卑怯な事だけはするなと。
 「是れだけ親先生のお祈りを頂いて居る、是れだけ沢山の御信者さんの、お祈り添えを頂いて居るのだから、結果は神様にお任せして有るのだから、卑怯な事はしちゃならんと。それをもう毎日申します。」と言われる。あちらの場合はお父さんが、長く外地に行って居られたんですねえ。ですからそして亡くなられた訳けですけれども。まあ云うなら、女手ひとつで竹内先生を育てられた様な訳ですけれども。
 だから主人にも成り父親にも成り、母親にも成りそう云う意味でその両方を持って居られる。又、両方を持って居らなければ、とても出来なかっただろうと云う様に思われます。確かに、例えば竹内先生が、今の助役よりも市長、市長よりも又色々な意味において、世のお役に立たれる事になられたら、確かに女は世界の田地だなあと思いますね。そう云うあのうおかげを頂いて居られる。
 本当に信心一筋、神様一筋でおかげを頂いて居られます。信心する者は、何事にも云わ真心に成れよと、云う生き方で行けよと、それを子供にも教えて居られる訳です。それを又一生懸命身に付けて来られて、現在の竹内先生が有るとまぁ思います。昨日は高橋さんのところの二番目の娘さんの誕生日でしたから、一家子供さん三人、一家五人連れでお礼参拝が御座いました。
 それで裏の茶の間でお茶でも頂いて、色々信心話をさせて頂いて居りましたら、奥さんが、「先生二、三日前に、こう云うお夢を頂きました。」と、こう言われる。「どう言う事でしょうか。」と。私も「面白いお夢ですなあ。」ち言うた事です。 色紙の様な紙にですね。みんなカタカナばっかりで書いてある事がですねえ。「コンコロモチノムシヲコロセ、てと。コンコロモチ、ね、それからどうでしね。
 三行に渡って、最後は「コンコロモチノ ムシガ オオイカラ ムシヲコロセ」と 最後にコンコロモチ」と書いて在ったそうです。それをカタカナで書いてあったそうです。「どう云う事だと思いますか。」と云うてある。まあコンコロモチと云うのですけぇ、金光様の金の字意味じゃろう か、と云うて。それでその事を神様にお伺いさせて頂きましたら、「熨斗(のし)ですねえ。
 よく昔芝居の引き幕なんかに付いて居りました。海老の様な感じ。あれはえびを図案化したらしいですね。こう云う様な、付いてある、そして、中が絞ってあります。だから、中が絞ってある、あれを取りますともうあれは、バラバラになってしまう訳です。云うなら水引を一本一本にして、こう折った様な形に成っておる。あれは「何のし」と云うでしょうか。そう云うそのいわゆる中がきっちと、信心の帯と云うものが、きちっと成されて居らなければ、のしにはならない。
 それでまあ何時ものしを付けておくと云う様なま、気持ちでしょうが、取り分け家内家内は主人を。自分もさる事ながら、主人は何時も神様に奉っておる。お供えしとると云う心もち。まあ高橋さんの場合少なくとも、月のまあーうち半分位は、神様の御用でお使いに成るでしょうねえ。ですからそれでとやかく、例えば言われよったら主人も言わば、神様の御用が出来ません。
 其処を留守を預かる女房が仕切って行かねばなりません。たまには本当にお父さんが居ってくれると良いけれどもと、云う様な事もあろう。ですから其れをそうでも在ろうけれども、其処ん所を何時も神様にお供えをして居る様な気持ち。まぁ時々居って頂いて、家の御用でもして頂く時には、神様からお供えした物の、お下がりを頂いて居る様な気持ちで、有り難く頂いて行かれたら良いと云う事である。
 しかし奥さんたる者その位に成られたら、主人は良い信心が出来ますよねえ。「あなたばっかりはもう合楽にばっかり行って。」と、やかましゅう言うなら、どんこん出来んですから。いわゆる主人は神様にお供えがしてある。所が時々その信心の帯を緩めますと、バラバラに成って来る訳なんです。そしてまたまには家に帰られて、まぁ家に居って御用して頂く時には、神様のお下がりを頂いて居ると思うて。
 大事に主人をして行かねばならん。またはお下がりを頂いて居ると思うて、お父さんがして下さる御用の事を有り難いと思うたらええ。私信心をさせて頂く者のですねえ、家庭と云う物はね。いわゆる家老が善うなければと云う、一般で言うそれはそれよりですねえ違う。信心によって私の一家がおかげを頂かねばならん。信心に依っておかげを頂かねば成らんと言うのですから、やはり夫婦が協力し合うて行くのですけれども、とりわけやはり、主人が中心に成って教会の御用を頂きます。
 又家内が御用を頂く様な場合が有りますけれどもです。やはり男が中心に成って御用頂きますから、家内がそう云う時にです。主人に何時ものしを付けて居る様な気持ちでです。神様にお供えをして居る様な気持ちで、言うならばうしろ祈念が出来るならばです、素晴らしい成果、素晴らしいおかげが頂けるだろうとこう思います。いわゆるコンコロモチと云う事は、やはり心持ちの事であろうと。
 コンはやはり金光様の、金の字を入れてある。金光様の信心させて頂く者の、言わば心持ちと云う。又、次に此の様にも申しました。例えて申しますとね。まぁ昨日のご理解から言うと、言うなら身の巡りとでも申しましょうかね。言うなら甘い物が好きとか、辛い物が好きと。好きと云う物ももう好き過ている。ですから好きな位なら有り難いけれども、好き過ぎたらね。
 もう例えば甘い物の為に人格を落としたり、辛い物の為に失敗をしたり、と云うふうに昨日は頂きましたねえ。と云う様に例えばその為に自分の人格を落とす様な、例えば巡りですねえ。ですからその甘い物で人格を落とす様な場合に成ったらです。その甘い物が慎まれなければ成りません。目の前にどの様に甘い物が出て来ましてもです。それこそもう、本当に喉が鳴る様に有りましてもです。
 好き過る物が目の前に出て来ると、ガタガタ手が振るうごとなる。もう恥も外聞も無かごとなる。例えばそう云う身の内のめぐりと云う物を、持って居る様な事が有るとするならです。其処を辛抱させてもらう。吉井の熊谷さん、あちらは非常に甘い物が好き、時々修行なさる時には、まぁ1か月なら1か月、日を切って、甘い物を頂きませんと、云う様な修行をなさいます。
 其れをですねえ、例えば成し終えた後の心持ちと云うのは、また格別だと。所がです。そのコンコロモチですね云うならばコンコロモチに虫が付いて居る。虫が沢山居る。その虫を殺せと。だから勿論この虫と云う事は腹の虫と申しますよね。腹の虫が治まらんそれを食べなければ腹の虫が治まらん。その虫を殺すのです。是れを飲まなければ腹の虫が治まらん、是れを食べなければ腹の虫が治まらん。
 だからその虫を殺さなければならん。決して甘い物辛い物と云うだけの事じゃないですよ。此処は信心修行として頂かねばならんと。そう云う時にです。私は愈々世界の田地とも言われる、所謂心がですね。培われる時では無いかと豊かに成って来る時じゃあ無いかとこう思います。ね。そう云う私はおかげ。所がそれがどうでしょう。例えば熊谷さんなら、熊谷さんの例を取りますなら。
 一月はと言わば心の虫を殺す事に一生懸命ですけれども、例えばその心の虫の方が勝って、例えば十五日で失敗をしたと致しましょう。皆さんも体験がお有りでしょうけれども、いわゆる修行が不成就に終わる時程、嫌な事は有りませんよね。気持ちが悪い事は有りません。いわゆる「神様、相すみません。又、失敗しました。」と云うてお詫びをする時の気持ちは、本当に嫌です。
 「きつう御座いましたけれども、おかげで辛抱し抜かせて頂きました。」と、お礼を申し上げる後の心持ちと云うのは、是れは、是れは素晴らしい。最後の所をだからコンコロモチの虫を殺して、いわゆる最後にはコンコロモチと。素晴らしい心持ちと云う事。信心さして、コンコロモチと云うのは、いわゆる信心させて頂く者の心持ち、すっきりそれこそ、セリの根を洗った様な心持ち。又次にこんな事も申しました。
 例えば痒い所が有ある。まあ例えて痒いと云うよりも肩が凝ったと致しましょうか。是れが一番適切です。だから自分でも良く肩を凝らします、例えば自分でも叩いてもみます。自分でも揉んでも見ますけれどもね。それが人から揉んで貰う時の気持ちと云うのは、是れは素晴らしいコンコロモチですよね。是れは皆さん体験がお有りでしょうね。痒いでもそうです。自分でがしがし掻くより人から。
 其処を掻いて貰う時の気持ちが一番良い。信心させて頂く者の心持ちね。自分であれを食べよう、是れを飲もうと思うのでは無くてです。神様が飲まして下さる、神様が食べさせて下さる時の有り難さと言う物は、本当に、最後に云うコンコロモチである。「高橋さん、其処ん所をおかげ頂かにゃいけんですよ。」と、是れはまあ奥さんばっかりに言ったんですけれども、私はその時実際本当は「これは奥さんだけじゃあないばい。高橋さんあんたも其処ん所を頂かにゃあいかんばい。」と、
 言いたかったけれどもね。昨日は申しませんでした。私はその例えば今日竹内先生のお母さんの事。それから高橋さんの奥さんが頂いて居られる、コンコロモチの事。その様な、私はいわゆる気持ちに成らせて頂く、その様な豊かな心を作って行くと云う。そこにです。なるほど良い家老じゃと云う事になり、例えば其の事が、そんなら奥さんだけじゃない、高橋さんあなたもです。と云う所にです。
 そこにやは良い種としての、高橋さんが有ります。良い田地に良い種を蒔いて、良い物が生まれて来ないはずが有りません。しかもそれがです。世界の田地と云われます様に、世の中の田地。良い物がその様に世の、愈々お役に立たせて頂く、と云う様なです。おかげに迄も、繋がって来るので御座いますから、もう一つおかげを頂いて、頂かねばならない。良い家老に成って貰わなければ、成らない女が良うなければ、家がもてんと言われるのですからね。
 そう云う気持ちにお互いが成らせて頂く。同時にです。「名将の元に弱卒なし」素晴らしいご主人の元に、素晴らしい奥さんがある。素晴らしい奥さんの元に、素晴らしい主人があると。そこんところの兼ね合いを、何時も考えさして貰うて、ね。たとえて言うならば、家内がおたふくさんに見える時には、自分がいよいよひょっとこである事を悟らせてもらい、主人がひょっとこに見える時には、自分自身がおたふくである自覚に立って、夫婦協力相ようしながら、おかげを頂いて参らなければ成りません。
 同時に厳しい修行を、高橋さんの奥さんのその頂いて居られる事の中から「コンコロモチに付いて居る虫を殺せ」と云う事は、大変な厳しい事ですよ。ね。例えば月のうち半分もお供えしておくと云う事は、女としては非常に淋しい事です。けれどもそれが道の為、それが教会の発展のごひれいに繋がる事の為ならば、潔ぎよう、私はお供えをする心持ちが、女の方に必要。
 此処は信心は一家をあげて信心をさせて頂く、いわゆるコンコロモチと云う事に成るならばですね。いよいよ私は夫婦の人達の理解し合われる其の事柄と云う物がです。「さあ、お父さんどうぞ行って下さい。」と後ろから押してあげれる様な言うならば後ろ祈念がです。出来る様な女性で在らなければ出来ない。と同時に家内がその様にして心の田地を豊かにして行ってくれて居るので有るから、そんなら自分自身もね。
 つまらん種どもおろしよる様な事では、つまらんと云う事をです、悟らせてもろうて其処に、よい種を下ろさせてもらえれるだけの信心の自覚をもってね。おかげを受けて行かねば成らんと思うのです。女は世界の田地言うなら、今年の世の愈々世のお役に立たせて下さいと言う事。それが世のお役に立ちたいと云う思いから、愈々それをお役に立たせて下さいと云う、強力な祈りを持たせて頂く所からです。
 そのね。内容としてです。私は今日のこの八十六節をです。只今申しました様な頂き方を成さっておいでられたらね。言わば主人の働きの場と云う物が、お役に立たせて頂かれる場と云う物が、生き生きと後顧の憂いなしに出来る事であろう。そしてあちらの奥さんが素晴らしかったから、うしろ祈念がね強力であったから、此の事が成就して行く事に成ったと云う事とに成ります。今日私此の是れを見せて頂きましたら、この内容の事を頂かずに、この「古川所用」と書いてある「古川」と云う所を頂くのです。
 そして私は此処のとこですぐ思いました。あちらのお婆ちゃんの事です。皆さんもご承知で御座いましょうかね。こちらに何日も居られましたから。ああもうこちらだけどげぇやろかとまぁ云うなら思ようりましたけど、それがみなあちらに行っても同んなじですが、もう絶対、いわゆる古川先生の側に居られて、その何と云うでしょうかね。大事にされると云う事でしょうか、ああもう本当に素晴らしい。
 いわゆる家老ぶりを目の当たりに見せて頂き、聞かせて頂いた訳ですけれども、ああ云う在り方の事をまぁ今日は「古川」と、頂いたんじゃ無かろうかとこう思いました。それはもう徹底して、もういわゆるご主人と一体と云う様な感じですね。もう言うならば逆らわれると云う事が無い。「もうあなたそう云う事をなさらんでも。」と、云う事がない。もうそれはどんな場合でも。
 それはもう本当に普通なら、此処のへんの所よそのなんか、「もうお爺ちゃま、そう云う事仰らんでん、そう云う事は話しなさらんでもとかと、注意しょうごたる様な所でもですね。もう決してそんなら私があのう一席原鶴の小野屋で、夕食を一緒に頂いた事が有るのです。そしたら一杯機嫌で興にのってから、大学時代に覚えた綱渡りを皆んなにご披露すると言われるのです。
 あれがもし、普通の他所のお婆ちゃんなら、「もうお爺ちゃん、そげな事はしなさらんでん。」と言いなさろうじゃろばってん。さあ自分の帯紐をといてですねえ。そしてそれを、綱渡りの紐にしてから、そして横から伴奏を入れんばかりにしてから、もうそれこそ何十回みておる、そのお爺ちゃんのしなさる事をですね。もう自分も共々に楽しい様にしてから、言われまたされます。もうそれは驚くばかりです。素晴らしい家老振りだなあと云う事を、今日の八十六節を頂いてです。
 そして「古川」と云う事をまあ感じてその事を、連想させてもらいました。どうぞ一つ此処ではよい家老と云う事だけ、女性に対する事だけを云うて居られますけれども、今日はそれに加えてよい田地と共にです。よい種が又必要であると云う事をこの八十六節から頂かなければ意味が無いですね。どんなに田地が良いと云うだけではいけません。その田地にいわゆる蒔かれる種自身も、また立派でなからねば、いわゆる夫婦協力し合うて行かなれれば、世のお役に立つ様なものは、生まれて来ないと思うですね。
   どうぞ。